NEW 高津区子ども会連合会 会長 新井久三さん 2009年2月12日
NEW 下野毛工業協同組合 理事長 細谷和彦さん 2009年1月27日
川崎商工会議所 会頭 西岡浩史さん 2009年1月1日
川崎青年会議所 理事長 手塚 稔さん 2009年1月1日
高津青年会議 理事長 島崎一城さん 2008年10月5日
教育文化研究所 代表 小川信夫さん 2008年9月21日
川崎北税務署 署長 山之口秀樹さん 2008年8月31日
国際ソロプチミスト川崎一百合 会長 倉方秀子さん 2008年8月20日
社団法人川崎建設業協会 会長 露木直義さん 2008年7月27日
社団法人川崎市食品衛生協会 会長 池谷修司さん 2008年7月27日
瑞宝単光章 成田義男さん 2008年5月18日
旭日中綬章 野村敏行さん 2008年5月18日
川崎市教育委員会 委員長 佐々木武志さん 2008年4月29日
川崎市 副市長 曽禰純一郎さん 2008年4月29日
高津区 区長 山ア 茂さん 2008年3月31日
2003年6月〜2008年2月にご登場いただいた方の特集ページはこちら
高津区子ども会連合会
会長
新井久三さん

 昨年5月に総会で会長に。 「会長の仕事の多さにびっくり。ナンバー2やナンバー3でいたら、ちょっとと言って断れることもありますが、会長になれば、そうはいきません。会を育てることも必要ですし」

 世は、挙げて少子化時代。 「子どもが減ってきているので、何とかしないと」と嘆く。 「このままいくと、子どもも減って、子ども会として組織運営ができなくなってしまいますので、解散ということも出てきます」
 予想以上に深刻だ。

子ども会との関わりは約20年。現在、高津・橘両地区合わせて単会は35。子どもの人数としては平均で40〜50人で総勢約2000人。 「そうはいっても、高津地区は子どもが多少増えているので頑張ってやろうかと思っています」

 とにかく、子ども会を活性化させることが一番と強調する。
「活性化するには、当然役員にも頑張ってもらわないとダメです。それと、学校との連携ですね。学校・家庭・地域と協働でやっているのですが、やはり学校の認識が弱い」 「学校側では、『今はそれどころじゃない』と言われます。子どもたちが非行に走らないようにするのが大事で手が回らないと」

 学校もさることながら、「子どもに興味のあるボランティアが連携し、学校と家庭を結ぶ役割をしなければならないと思っています」 それにはまず、学校にも認識をしてもらわないと困る、と説く。
「他都市などは、学校と一緒にやっているんです。子ども会活動とかでジュニアリーダーといわれている中学生が小学生を教える組織があるのです」

 もちろん川崎でも、「進学になった場合に学校の方から、『子ども会活動をした証明を下さい』と、子ども会の会長などが連名で証明をしたりすることがあるんです」それすらも先生は知らないことがあるという。「このままでは経済も厳しいですが、社会全体が荒んでいっている。微力ですが、なんとかしたいと思っています」

(聞き手山田裕男) 子どもたちの行事への参加について、
「やはり、なかなか“食わずぎらい”。なんとなく面倒くさいとか、入ってしまうと親が役員やらされるとかがいやで、なかなか入ってくれない」 入ってしまえば面白いもので、いろいろな行事に参加してくれるという。「みんなにもっとアピールして、みんなの認識が増えればもっと増えるのではと思います」
下野毛工業協同組合
理事長
細谷和彦さん

 昨年3月の総会で「下野毛協同組合(高津区下野毛)」の理事長に。 「理事長になった途端に景気が悪くなってしまったようです」と苦笑する。「もともと力不足でやったのは最初から分かっていたのですが:。歳は64歳で、病弱だったりしますので固辞したのですが、どちらにしても誰かがやらないと成り立たないので」と謙遜する。

 会員は104社。 会員は、大手企業の下請けが多い。しかも一次下請けよりは2次、3次下請けが多い。
「ですから、実際に携わっているのは5人以下の企業が多いんです。家族や職人、それにパートが1人とか。ですから従業員が10人を超えたら“大手企業”の方です」

 もともとは東京の品川・大田・目黒・世田谷などで工場をやっていた人たちが、昭和40年代に騒音とか振動とか、公害の問題が持ち上がり、それでプレス関係ができなくなって川を渡ってきた。 「当時は、川を渡れば(高津区の)等々力、下野毛、久地、宇奈根と準工業地帯がずっとあったわけです。そこにみんな、引っ越してきたわけです」

 ところが、バブルがはじけた頃、会社がダメになったりして、会員が減った。その後、マンションが建ったり、一戸建てが出来たりした。 「そうなると、結果的に地目が住宅地に変更されるといけないと。とにかく基本的には未来永劫、できるだけ長く、準工地を守りたい」  しかし、準工地だから工業地帯ではない。一般住宅もあるので、住工混在ということになる。 「それが段々、一般の住宅が増えると、住宅地ということで地目を変更されてしまう。また、ほかの土地に移らなければならないといけない」

 そこで、マンション建設の説明など必ずやるよう、施主に注文している。「ここは準工地なので、できるだけ配慮をしてやっておりますが、みなさんにもご協力していただき、共存共栄をしたい」と説いて回っている。「同じものづくりに携わっている人たちで、できればみんなで協力できるようなことがないだろうか、情報を収集している」 

 あるいは「本来だったら要望事項を行政に手配していきたいなあと思います」 例えば、一軒ではなかなかできない健康診断も会館を使って毎年定期健康診断をやるとか。 「でも、レクリエーションやブロック研修会、それから優良企業の工場見学会、学校訪問やインターシップの協力があったり、結構いろいろとやらせてもらったりしています」

 小さいながらも、夢と実行力は大きい。
「学校訪問は、工団連の主催で明治大学の先生に来ていただき、車座セミナーをやったりします。あと、逆に小中学生が近所の企業訪問をするという社会科の授業にも協力したりしています」
(聞き手山田裕男) これからの理事長としての抱負は
「ともかく継続は力なり、組合としてずっと続けていきたい。とにかく全員参加で」
川崎商工会議所
会頭
西岡浩史さん
―昨年11月に就任して一年が過ぎた。
 副会頭を入れて4年。その頃に思っていた問題意識、それを自分なりに何ができるかなあという一年と計4年の中で、川崎の街を、「この素晴らしい人たちと、どうやって汗をかくかな」と思っていました。
 会議所の所員はとても優秀だけど、どうエンジョイするかというか、楽しみながら明日の夢語り人ではないけれど、どうしようかなあという中でみんなが仕事をしていることが、ちょっと気にかかる。
 全体最適として、明日を見ながら、どうあるかというハウツーとか、自分がどう道を作っていくかということも含めてリードしてきたつもり。

―会議所内が以前より明るくなった。
 一番大事なところ。何ができたかということは、まず所内の雰囲気が変わったこと、明るくなったということは何事にも前向きになったということ。それをこれから、どう共に汗しながら、共感するか、その世界にどうもっていくかということが2年目からの課題。これを積み上げて実りある、やって良かったなあ、という自分なりの汗をかいて、喜び合う、喜びを分かち合う、共感というのは感動の世界。

―新会館の構想は。
 だいたい煮詰まった。それで具体的にスケジュールをたて、市が行っている川崎駅前再開発、これに連動しないと、それに取り残されてしまう。着工は今年の暮れの予定。

―今後の駅前は。
 昔は必要悪的なほこりもありました。いま川崎は飛躍しているが、産業都市、工業都市というベースがあって、それを元にして環境都市、研究開発都市に大きく切り変わろうとしている。国際都市に大きく切り変わろうとしている。世界の人が来た時に、「ウェルカム川崎」になるかなあと、そういう総合的な魅力は、行政だけでなく、市民の努力が必要。それは、つまり市民参加。 

―金融危機、緊急支援対策の利用は。
 今までの会議所にしては珍しく早い動きだった。とにかくやらなくちゃならないわけで。何をしなくちゃならないかというパンフレットは良くできている。 会議所は「こういうこともできますよ」というPRにもなる。

―発想はどこから。
 通常やっていることが経営支援、それを知らない企業のもある。そういった面で今までPRは下手だった。会議所は何をする所、ともっと発信しろと。会議所は敷居が高いというのが開かれた、キャッチフレーズにもある通り、「開かれた会議所」ということ。

―新年度の計画は。
 「アクションプラン」ということ。何をどうするかというところ。
 各部ごとに、20年度の事業計画をカットさせようとしたが、ところが、とても意欲的に増えてきた。
自分のやってきたことをどう評価されているか、認められているか、そこに仕事に対する意欲が出るわけ。それと、「良くやってくれる」という声があるから、必ず実行につながる。
(聞き手山田裕男) ―今年の抱負は。
 一つには中小企業、特に商店街に、できたら物の考え方を前向きにしようよ、顔で笑って心で泣いて。その姿勢が大切。
こういう時こそ、「ピンチはチャンス」ということで、稼がなくても、走れば凧は揚がる。なら、走っているか、動いているか、ジッとしていたらだめ、ということ。
川崎青年会議所
理事長
手塚 稔さん

 川崎青年会議所(川崎JC)に入会して足かけ6年。
 きっかけは仕事の関係で、たまたま仕事を一緒にしていたので誘われて。
「小さいコミュニティの中にいると、“井の中の蛙”になるのが嫌だったことと、企業家として仕事をする中で、川崎で育った人間ですから少しでも川崎のお役にたてることはないかなあと思いまして」 それが、自分のスキルアップにも通じると思い入会。

 「経営者が多いということ、また異業種の人がいるということで、さまざまな人がいるので興味があり、顔を出した」 で、面白そうな団体だなあということで入った。
「大いにスキルアップになりましたね。まず、いろいろな社長、いろいろな職業の人がいるので、いろいろなことを学ばせてもらった」 特に、喋ること、話術について学んだ。「人前で喋るチャンスが沢山あることで勉強になりました」

 川崎JCは、奉仕活動を大目標に、川崎の街づくり事業をやろうということで集まっているメンバーで構成されている。
 6年目で理事長というのは、かなりのスピード出世。
「理事長職をお受けするに当たっては、6年目というのはかなり早い。でも皆さんからのご推薦を受けてなりました」

 教育の観点から川崎の子どもたちと父兄を呼んで公開的な事業をやろうと意気込む。そのほか、例年の行っている子ども相撲大会など。「昨年、子どもたちに夢を与えようということで、バスケットボール事業をやらせていただいた」 川崎在住の子どもたちにバスケットボールの大会を開いた。そのきっかけは、『週刊少年マガジン』に川崎が題材になっている「あひるの空」というマンガ。作者は川崎在住の日向武史氏。「子どもたちに夢を与えようと。バスケットボールをやっている子どもは沢山いる。しかし、JCだからできるバスケットボール大会を開催しようと」

 また、富士通レッドウェーブという女子のバスケットボールチームに協力を依頼し、スキルコンテスト、アメリカでいうNBAに近いようなプログラムをやって大好評だった。
(聞き手山田裕男) 「今年も継続的に行いたいと思います」
 みんなで一致団結してやろうというのが理念。
「全員野球です。そうでなければ何の意味もありません」
高津青年会議
理事長
島崎一城さん

 1970年生まれの38歳。同会議へ入会したのは93年。ちょうど20歳になった頃だ。それから約15年を経過した。 高津生まれの高津育ち。
 メンバーには近隣の先輩たちや知人が大勢いた。一生、地元で商売をやる覚悟だったので入会した。仕事の合間に、ちょっと顔を出す程度だと思っていた。が、そうではなかった。
 「こんなにも多くのボランティアをするとは思わなかった」 当時はメンバーも多く、いろいろなボランティア活動を行っていた。

 入会して高津区民祭の事務局長や副理事長などを歴任。かつて父の光順氏も同会議のメンバーで、
理事長を経験した。親子2代の理事長となる。 「みなおそう我らが郷土・高津」を合言葉に、今年は創立40周年の節目の年。今月20目に記念式典が予定されている。 今では、会員も少なく、月2回の例会も出席率は良くない。 「仕事が忙しく、仕方なく欠席する会員が多い。他人を雇うゆとりもないのが現状」と嘆く。
 島屋タンス店の専務取締役を務める。歴史は古く地元では大手の家具店だったが、その後、大型店が出店したり、消費者が安い家具を買うようになった。今では主に、通信販売か家具の修理を請け負っている。 「仕事とボランティアとの両立はなかなか苦しかった」 しみじみ振り返る。仕事が入っていても、急に呼び出しがかかったりする。とはいえ、入会して良かった。

 「人びととの交流の輪が広がった」
 第28目の区民祭の事務局長のとき、「多摩川にアヒルをながし、″ダックレース″を実施したことが、いちばん印象にのこっている」父親に似て、奉仕の精神が旺盛だ。高津青年会議のほか、市青年団体連絡協議会役員や同区社会福祉協議会委員などを歴任、現在も社会を明るくする運動の委員や消防ボランティア、東京電カサービス懇話会合員、市商店街連合会青年部委員、市民活動センター評議員、区民会議委員・企画委員会委員などの活動を続けている。
(聞き手山田裕男)
教育文化研究所
代表
小川信夫さん

 ―池上幸豊を取り扱った動機は。
 昨年、「多摩川に虹をかけた男・田中兵庫物語」を公演した時、市民からとても反響があったわけです。いろいろな声があ ったものですから阿部孝夫市長も気を良くしたわけです。劇作家の井上ひさし氏が審査委員長の「斎田喬戯曲賞」を受賞した んです。 阿部市長がとても喜びましてね、「この文化運動は絶やしてはだめです」ということで、“音楽のまちづくり”と“演劇のまちづくり”ということで、アートセンターができたことでもあり、「次の市民劇は浅野総一郎をやれ」ということだったのですが。 浅野総一郎を調べていくうちに、運河を作るために百姓たちの田んぼとかが買収されてしまうわけです。それで猛反対した
わけです。

 ―そこで、池上幸豊を。
 池上から逃げられないなあと思ったわけです。また、今は品格が問われている時代なので、リーダーシップというのは何だろう、そこで池上は名主で立派な親分なんだけど、それが、なぜ農民層のために、最後は私財を投げうつわけです。

 ―人間的にはどういうところにスポットをあてたのか。
 池上幸豊が26歳から始まるのですが、妻の須磨と結婚した時から始まります。奥さんとは8歳違います。彼は夢を持っていたのです。彼は軍人でした。和歌の達人でもありました。京都の冷泉家の門下生だったわけです。 池上は江戸に出て勉強をしなければだめだと思い、18か19歳の時に江戸の門をたたくわけです。成島道筑の一番弟子になるわけです。成島は彼の才能に着目するわけです。そして指導する。漢学とか儒教を学ぶわけです。

 そのうちに政経、経世済民の学を学ぶわけです。けれど彼は和歌も作るわけです。それを見た成島は京都の冷泉家に合わせるわけです。そして入門を許される。奥さんも和歌を学び、入門するわけです。劇でも夫婦で作った歌が出てきます。幸豊は、最初は勉学青年だったわけです。その青年がどこで庶民のために泥をかぶりながら開拓に向かっていくか、そこにドラマの展開があるわけです。農民の苦しみを通じながら、それまでは最初お金を貸すばかりだったんです。可哀そうな人たちにお金を貸すだけなんです。そういうことしかしなかった名主が、やがてこれではダメなんだ、本当に彼らを救うためには新たな土地、また百姓は土地に対して命をかけているということが段々わかってくるわけです。     

 ―土地改革はどのようにして。
 地主たちを集めてやったことは、まず土地改革をやろうとしました。土地は埋め立て地。だいたい良いものができないんです。そのためには土地を肥やさなければならない。土地の肥やし方にはお金がかかる。そのためには地主さんからお金を集めて、肥やすわけです。そのためには野菜作りをどんどんやったわけです。これが一つです。もう一つは芝を買ってきて燃やして灰にするわけです。そして灰を使うわけです。近隣農家から草を買ってきては堆肥をつくるわけです。

 これに対して、貧しい人々をなんとかして救いたいと。お金がないので、池上は自分のお金を出すわけです。そして抜本的に、小作人たちが土地を持てるようにするわけです。10分の1だけは池上家に土地を下さいよということです。それはどういう発想かといいますと、実は池上としてもらいたい、それをすべて供託金にしてしますわけです。貯めておくわけです。それは飢饉がきたりするわけですから。津波と多摩川の氾濫がありますから、その時に貯めたお金を使うというわけです。義田(ぎでん)の方式というんです。村づくりのリーダーなわけです。

 ―芝居のクライマックスは。
 最終的には苦労しながら、やっと反対がありながらも農民が納得して、それまで反対があったのにもかかわらず、じゃあ、やろうということになった時に、「私がやっているのはみんなが生きていくための村づくりをしたいということなんです」 今日のコミュニティづくりなんです。
(聞き手山田裕男)  ―最後に作者としては市民にどういうところを見てほしいですか。
 つまり今は、市長とか市がお金を出してくれる、市民の連帯、市民そのものが川崎市についてみんなが振り返り、おたがいが川崎に居て、市民意識というかそれをドラマを通して作りたいと。前回やったことで、確かにみんなが川崎とはこうだ。芝居を見にきてくれた人たちが感動を共有してくれると。川崎っていいなというアイデンティティ。それをドラマを通して作り、観る、みんなが同じものを見て共有でいるという喜びです。これが市民意識なんです。
川崎北税務署
署長
山之口秀樹さん

 7月10日付で川崎北署に。川崎の勤務は初めて。鉄道網や交通網が発達しており、商業と工業が混在したベッドタウン。それでいて、昔ながらの佇まいで、さまざまな貌を持っている。管内の第一印象だ。
「気持の中では、まだ牧歌的な雰囲気があればいいなあ」

 九州・熊本国税局に採用され、今年でおよそ四十年。「ある種の使命感の高さを持ち続けなければいけないが、そこまでは、なかなかですね。しかし、苦しいけれど、やりがいがありました」
 税務関係団体とのあいさつ周りがやっと済んだ。
「みなさん、実に協力的。温かいですね。地域の持つ独特のぬくもりを感じました。表情がみなさんとても柔らかいので、ホッとしています」 今まで経験してきた中で、最初からあきらめてしまうと次へ進めない。また、急いでも、それほど良い結果はなかった。「どちらかというと失敗の積み重ねの中で『あわてず、あせらず、あきらめず』。一番大事なのはあきらめないことですね」

 川崎の前は東京不服審判所横浜支所の支所長。具体的には、税務調査をする。で、調査額が申告額を上回る。これで修正申告をと。が、納税者は納得がいかない。そこで税務署は更正処分をする。「いわゆる税務裁判の前置きです」 横浜管内は 結構多い。年々増えている。税務行政に携わったなかで、貴重な経験をした。「自分たちが日々行っている事業から、少し離れて見るのはとてもいい経験をしたと思います」

 納税者には、はっきりいって、イヤがられる仕事。それでも信頼がないとだめ。「信頼される仕事というのは、常に適正公平で、いわゆるキチンとした仕事をすること」 適正公平な課税と徴収が、いちばんの憲法だという。職員にも、「実際に仕事をするときには、『手をぬかずにやってください』と」
さらに、納税者の目線で、考え方で、仕事をと。納税者は、知識のある人もいれば、そうでない人もいる。「納税者の立場になってものを考え、話しをするようにと」
(聞き手山田裕男)  趣味は、落語を聞くこと。古今亭志ん朝の大ファン。
国際ソロプチミスト
川崎一百合
会長
倉方秀子さん

 今年7月、今年度(2008年7月〜09年6月)の会長に。創立15周年の節目を迎える。責任は重大だ。
国際ソロプチミスト(Soroptimist)とは、ラテン語のSoro(姉妹、女性)とOptima(最善、最良)の合成語で「女性にとって最良のもの」という意味。専門職または管理職にある女性たちが組織し、地域社会や世界でさまざまな形で奉仕を実行している。

 1921年、米国カリフォルニア州オークランドの教師、弁護士などさまざまな職業分野で活躍する80人の女性が、もてる能力を社会への奉仕に捧げる目的を持って創立された。川崎―百合クラブは、1994年4月に川崎クラブがスポンサーになり、認証を受けてから15年になる。会員数は20人で、川崎市中原区、高津区、宮前区、多摩区、麻生区、横浜市港北区、青葉区から参加している。「クラブが15年目になりますけれど、今はスムーズに流れがよく、親睦もとてもいい感じでやっております」

 15年を振り返る。「いろいろな人と出会えましたので、とても楽しいです」 楽しくてたまらない。「ボランティアとか社会とのかかわりもありますから、入らなかったら関わりもなかったかなあと思います」 今まで歴代会長は大変だなあと思っていた。が、自分が(会長を)やるようになって「すごく興味がわいた」 例えば環境問題。今年は全体で環境問題をやるようになった。「趣味で海に潜ったり、山に登ったりしているのですが、そうすると本当に珊瑚礁とか化石化されていて本当にかわいそうなんです」 何かやらなければ。みんなで頑張ろうという感じ。「やはり一人の力よりも、声をかけあってみんなで行動するということが大事なんです」

 会員20名で頑張っている。 会長の任期は1年。「でも、みなさん、やっとソロプチのことが分かった頃にバトンタッチなので、私などは今、何がなんだかわからない状態です」 今まで会長任せで、責任転嫁していたので分からなかったが、会長になって初めていろいろな資料を見て、「もっと勉強をしなければという気持ちです」

 例会は月1回、第3木曜日。その1週間前に理事会を開く。8人の理事たちが例会の下準備をする。「みなさん、いろいろなところから集まって、年代も50代から70代の人たちが集まっていますから、その人たちをまとめていくというか親睦をはかりながら、やはり本部から来たものに対して仕事をやっていくという感じです。 「創立15周年にあたって講演会とか、今下準備をしているところです」 「私たち本当にうれしいことに年齢も職業も違いますが楽しくやっております。本当にありがたいと思っています」 多摩区在住のパラリンピック選手の成田真由美さんを最初から支援しております。ですからその方を講演会にお呼びする予定です。まだ始まったばかりです」
(聞き手山田裕男)  私たちがソロプチミストといっても全然わからないのです。『どういう団体ですか』と必ず聞かれます。男女同権とはいっても、まだまだ女性は虐げられた存在。男性のDV(ドメスティック・バイオレンス)は耐えない。「私たちはそういう人を支援しているのです。『花みずき』をやってのですが、たくさん見に来てくださったんですよ。「花みずき」とは、男性からDVを受けた人たちを一時的に保護する施設。それで、米国の支部から表彰された。「ボランティアをやって良かったねと言っています」
社団法人川崎建設業協会
会長
露木直義さん

 6月23日付けで、八代目の会長に。 会員が少なくなっているとはいえ、土木や設備を含め127社ある。「責任が重いです。時代がこういう厳しい時代ですから」 「それでも大山廣晃前会長が11年間会長を務められた。最も大変の時期にやっていただいた。その路線がずっと続いているという感じです」

 長引く不況で退会者も出てくる。「退会ということは、つまり廃業か倒産といったような形」 現実は、建設業界にとって厳しい。「昔は民間からの需要と公共事業とが、“ギッタン・バッコン”といった状態で。要するに民間がいい時は、ちょっと公共が悪いとか、公共が良いと民間が少し悪かったりとか。そういう時代のアンバランスがあったのですが、今は両方が悪いです」と、キッパリ。「われわれが持てる力ではどうにもならないという状態です。こういう時こそ、“公共頼み”ではないですが、行政に地元の中小企業の育成をやってほしいと思います」 行政にずばり注文する。
「ただ、今までと違うのは、どれだけ自助努力がやれるかが問われている。市民の目にも見えるような状況をわれわれ自身が努力しないと」 なかなか理にかなっている。「やはり、われわれの努力が認められないと、役所もなかなか腰が上がらないと思います。厳しいですね」 業界全体のまとまりを説く。

 金融機関などは、いまだに不動産業や建設業には厳しい。米国のサブプライムローンなどの影響も、金融業界に影響しているため、われわれも影響を受けている。 とはいえ、先行きは他都市と比べて川崎は希望が持てそうだ。身近なところでは、上下水道や道路など。それに公共事業の学校や福祉施設など、ある程度の需要は見込めるという。

 「いま、建物関係でいうと耐震問題ですね。川崎もいつ地震や自然災害が起きてもおかしくないですし、日本全体がそんな状況ですから」 それに大きなプロジェクトが控えている。川崎縦貫道路や市営地下鉄、神奈川口構想など。それに武蔵小杉の再開発など。「地元中小企業にとってはビジネスチャンスが作れるかということです」 「しかし、われわれ業界の努力だけでは実現しないところもあります。そうしたところを公共機関や商工会議所などのお力を借りながら、やらなければいけない」 その一方で、大手ゼネコンがどんどん入り込んでくる危機感も否めない。「結局、地元企業でできること、大手企業も地元企業に対しては基本的なスタンスというか、地元と仲良くやっていきたいというスタンスはあります。そこを、どういう具合にやっていうかということですね」
(聞き手山田裕男)  いま、最も期待されるのが市営地下鉄の建設。「われわれ業者だけではなく、市民全体の希望でもありますからね。今までの大山前会長のスタンスもそうでしたけれど、市民の人たちとわれわれの仕事は密接です。道路にしても、上下水道や一般道路といった、他にも学校建築や福祉施設など、みんな市民に直結するものです」
社団法人川崎市食品衛生協会
会長
池谷修司さん

 今年5月末日の総会で会長に就任。社団化されてからは三代目の会長。「まだ1カ月しか過ぎていないのですが、とにかく忙しいです。ちょうど切り替えの時期ですし」 市内の7つの単会をまとめる。ちょうど、総会シーズンで多忙を極めている。「会長に就任当初は、ある程度まわって皆さんに顔を覚えていただかないと」 飲食業界だけに1年中忙しい。「特に今は、食品に関して世間の風当たりがいちばん強い時代です」

 会長としての抱負は。「今までの会長の路線は守らなければならないと思います。それにプラスアルファーをどう加えるかということです」 「地道な活動ですので、そんな大それたことでなく、とにかく食の安全ということを確保しなければならないと思います」 そうするにはどうしたらいいか。その意識をどう一般の人たちに持たせるか。「たしかに安全の意識というのはあるのですが、自分自身に差し迫った安全意識というのは意外と少ないんです」

 入会を誘うと、決まって「メリットは?」と聞かれる。「食協(食品衛生協会)では講習会をやったり、保険に入ったり、相互に交わって話をして、その中に保健衛生などの話も出てくるし、保健所との交流もあります。そしていろいろな自分のメリットを考えてください」と話すのですが、なかなか目先の事を考えてしまって。「ただ安全に対するメリットは十分に確保できますので入ってくださいと」 中堅どころの大手スーパーやコンビニなどは加入率が非常に低いんです。本部ですべてやっているわけです。

 川崎には今127人の食品衛生指導員がいる。食品衛生推進員は川崎市長の委嘱。食品衛生指導員は食品衛生協会の会長委嘱。内容の違いは、推進員は食品に関する業界の両者の相談や指導を主に行っている。指導員は年に2回、8月と12月の食中毒の予防月間ということで奮闘している。

 「特に最近は冬の寒い時でも食中毒が発生する。最近はノロウィルスとかOー157とか、中毒が多様化してきている。「もしも事故が起こった時には、保険制度もありますので補償対象に会員はなりますので、安心といえば安心ですから、非会員だと補償がありませんので全額負担ですから」と力説する。 食中毒は、いくら予防と注意を呼びかけても発生する。「最近は細菌性のブドウ球菌とかサルモネラ菌などはかなり減ってきたが、それよりもO―157とか生カキによる食中毒などが多い」 普通の細菌だと、手洗いなどで防げるが、毒素をもった細菌だと、防ぎようがないという。「人間の体内で、増殖をはじめるんです。ですから非常に怖いのです」

 8月は食中毒予防月間。 海水温が一定温度になると、“食中毒予防警報”が発令される。「海水の中のプランクトンが発生することと関係があるんです。ですから海水浴に行っておなかをこわすということもあるわけです」
(聞き手山田裕男)  最後に切実な希望が聞かれた。「食協の知名度を上げ、会員を増やしたい」
瑞宝単光章
成田義男さん

 1958(昭和33)年、23歳の時に高津消防団に入団。当時は町会からの推薦で入団。「推薦されたら名誉みたいなものですから」入団した当時、大きいポンプ車で出動した。消防署のお下がりものだ。

 昨年、消防団生活48年で勇退した。その間、81年には班長に就任。90年に部長、93年には副分団長に就いた。95年に分団長、そして02年から07年まで副団長に。 「地域の人と協力しながら、旺盛な郷土愛と消防の精神」で勤めあげた。「若い人の励みになれば」と受章を喜ぶ。とはいえ、「今と昔とでは団員の職業や意識が少し違うと思います」 今の団員は、ほとんどがサラリーマン。「自分たちの時には農業関係者が多かった」

 ―48年間を振り返っていかがですか?
 高津区久末のがけ崩れで、職員が殉職したことが最も印象にのこると、48年間の消防団生活を振り返る。それに、富士通ゼネラルの大火も忘れられないという。 良かったことといえば、「やはり地域の人びととの交流。高津全体の消防団の仲間と話したりしたことが財産ですね」
今も消防ボランティアの会やOB会などを務める。その上、町会の副会長や保護司など幅広い分野で活躍している。なかでも保護司は20年になる。「消防団は、ポンプ操法が基本。それを学び、基本の動作を身につけ、それから早さや動作をきれいにすること」若い団員に希望する。6月1日には大会がある。「消防の一つの基本ですから早くマスターしてほしい」

今月9日に皇居へ行き、天皇陛下に拝謁した。
 趣味は菊づくり。 もう10年になる。千年神社の七五三に合わせて境内を飾る。
 今では10人ほどで「千年菊花会」を結成し、会長を任されている。おたがい、競い合ったり品評し合ったり。「花とか小鳥を見たりしている顔はとても優しいのですよ」と奥で夫人が声をかけた。
(聞き手山田裕男)  家族は、長男が近くのマンションに。長女もすぐそばにいる。「孫の顔を見るのが何よりうれしい」
旭日中綬章
野村敏行さん

 「勲章をいただくなんて、光栄ですよね」 喜びを隠せない。
川崎市議を連続八期32年間務めあげ、昨春の市議選には健康を理由に惜しまれつつ勇退した。この間、29代議長を務め、また、川崎市議会史上初の百条委員会の委員なども務めた。こうした功績が認められ、春の叙勲・旭日中授章を受章した。今月13日、夫人とともに天皇陛下に拝謁した。平価に拝謁するのはこれで3度目。1996年春、藍綬褒章を受章したとき、それに議長時代に全国議長会の終わりに拝謁することが出来た。

 父・長三郎氏は40年以上、ローカル紙「川崎民報」を続けた。
市役所第二記者クラブの大先輩に当たる。言論人としては飽きたらず、政界に意欲を燃やし市議選に3度挑戦、3度とも敗れた。 こうした父の背中を子どもの頃から見ていた。中学生の頃は父の選挙応援も買って出た。4トントラックに乗り、メガホンで支持を訴えた。父の新聞を継ぐのではなく、「何としてでも父のなしえなかったことを成功させたかった」 父を心から尊敬していた。

 高校時代の二級下の奈々子さんと結婚、婿養子となり、「大曽根」姓を名乗るようになった。しかし、選挙戦では、父と同様「野村」で戦った。父が、当時の衆議院議員田川誠一氏の応援をしていた関係で、田川氏の会社に一地味を預け、政界を目ざした。最初は34歳の時に初出馬したが惜敗した。2度目の挑戦は、早いかなと思ったが、翌年に政令指定都市になり区制が敷かれることが分かっていた。この好機を逃してはならずと、1965年の選挙に再挑戦、捲土重来を期した。以来、連続八期当選という偉業を成し遂げた。 議員時代はタカ派を貫いた。たとえ先輩議員であれ、是々非々でとおした。理事者側には一目も二目も置かれ、恐れられていた。

 思い出は、何と言ってもリクルートスキャンダルの時、川崎では初めての百条委員会を設置、委員長を務めた。しかし、不祥事を裁くということに抵抗はあった。証人喚問するとか、厳しい面がある面、「調査権」はあっても「捜査権」はない。調査には限界があった。結局は検事から諭され、結論を出し得ないまま終わった。むなしさばかりがのこった。これからは、こうして事例は先ずないだろう、またあってはならない。
(聞き手山田裕男)  これからの若い議員に対し、「自己主義的なことが多いように思う」と苦言を。「先輩たちに良く聞き、勉強をして欲しい」
川崎市教育委員会
委員長
佐々木武志さん

 「とにかくびっくりしました。まさかという感じです」
市内での教員生活38年。1997年に稲田中学校を最後に現場を退き、市立中学校校長会会長を経て、NPO法人・教育活動総合センターの事務局長に。自宅は東京・調布市。市外の人が教育委員長になるのは初めて。
 前委員長の宮田進氏が小学校の校長会を務めているとき、中学校の校長会を務めた。また、教育委員会事務局の指導課の時に一緒に指導主任をやっていた野で、呼吸はピッタリ。長いつき合いだ。
「いろいろな話は、宮田さんからも聞いています。大変な仕事だなあと思っています」しかし、「心配しながらも、誰かがやらなくてはならないだろうと思います」

 教育委員をまとめるのはもちろん、市内全部の公立学校をみなければいけない。
「委員さんが素晴らしい人ばかりですので、皆さんの協力をいただきながら、委員全体として取り組むことが大切かなあと思っています」
「現場が一番元気が出る、ということでバックアップが出来ればうれしいなあと思います」
現場に元気がないと、いくらこちらが元気をだしてもどうしようもないという。「先生たちがヤル気をもって子どもたちを指導してもらえるということが一番大切なのかなあと思います」その手伝いが出来れば一番良いと。

 川崎の教育の素晴らしいことは、「昔からですが、教育委員会も校長会も、退職校長会もいろいろな組織があるわけで、その組織がすごくお互いに信頼しあっている。いがみあうとか、そういうことがない素晴らしさがあると思いますので、そういう面は伸ばしていかなければならない。そういう川崎の素晴らしさは残したいと思います」これらが川崎教育界の伝統だと言う。「川崎の行政と現場の先生たちが力を合わせてきたというのは、全国どこにいっても誇れると思います」
 臨時の教育委員会で、第二次教育プランを一応承認し、動き始めた。
「教育プランの最初に不登校とか、いじめだとかを取り組みます」 「学校だけでは難しいので、各関係機関とも連携を結びながら進めて行きたい」
(聞き手山田裕男)  穏和な人柄だが、教育に対する情熱は熱いものを感じる。
川崎市
副市長
曽禰純一郎さん

 「こういう役回りになり責任は感じています。
主に健康福祉と、新設されたこども本部や病院、環境、廃棄物など、いわゆるソフト系を担当する。
それまで、総務局で行政改革に取り組んできた。「内部改革をきちんとしなければならないということが一番だったから、そういう意味では人事給与の改革や、職員数の削減など。職員の理解もあったし市議会の支援もあり、かなり道筋は進めたかなあと」2100人も職員数を削減し、給与制度も大いに見直された。

 1973(昭和48)年に入所。「予算など、政令指定都市の中でも予算の伸びが一番で32.9%。今ではとても信じられないような伸びだった」高齢者率が3%くらいで、65歳以上の方が3万人台だった。
「とにかくまず内部改革を行ってきました」 「今度は市民の方にもキチンと説明し、福祉についても、本当に必要な人にも継続したサービスを届けられるようなシステムに変えていかなければならないと」
“負の遺産”がかなり整理された。「そこで福祉のシステムをどうするかというのは大変だと思いますが、いろいろ知恵を出さないといけないかなと思います」

 もともと新聞記者志望だった。「特に理由はなかったが、社会正義のためみたいな感じで」
公務員の仕事は、「いわゆる社会のために働く仕事なので、非常にやりがいのある仕事だと思うし、これからどんどん入ってくる若い人たちにも是非これからもやってもらいたい」
「これからは、なるべく若手と女性を登用したい」
市長から、もっとやれ、と言われているという。「やはり、ひと昔前の、人事の仕組みが女性には整わなく、修羅場を経験してもらうような人事配置にも欠けていた部分がある」市の職員の採用試験をやると「ペーパーテストの成績も良く、面接でもきちっとしているのはほとんど女性」
あと10年もすると、「局長会議でも女性の方が増えるのではないかと思っているくらいです」
(聞き手山田裕男) 趣味は、学生時代は山歩きをしていた。
「今は多摩川河川敷を朝歩くようにしています」


1949(昭和24)年12月生まれ。
73年、早稲田大学第一法学部卒業。同年4月、市役所入所。民政局厚生部庶務課主査、財政局財政部財政課主幹、総合企画局企画部企画調整課主幹、同課長、02年、同局企画部長などを歴任。05年4月、総務局人事部長、05年4月、総合企画局長、06年1月、総務局長。
高津区
区長
山ア 茂さん

 2月15日付で高津区長に。前職は建設局総務部長。
「いろいろな区民の人とお会いして、期待というのか、そういう重さは感じています」
25年前、高津区役所に勤務していた。いわば、四半世紀ぶりの里帰りだ。
「北口の再開発がずいぶん変わったなあと思います。昔の面影が全然ありませんね。南口も野川柿生線が開通してずいぶん変わりました。西口の商店街が少しだけ昔の面影があるくらいですかね」
 あまりの変わりように驚く。里帰りして、「少し恩返しをしたいなあという気持ち」

1975(昭和51)年に市役所へ入所し、すぐ高津区役所へ。「最初にスタートを切ったところですから、思い入れが違いますね」 1952年生まれの55歳。明大商学部卒。 自宅は相模原市だが、生まれは川崎市幸区。小学校は古川小学校。「行政の継続ということではないですが、今まで進めてきたことをしっかり、やっていきたいということがまずあります」 就任直後の抱負を、こう語る。    
「やはり事業者と区民、行政が一体となって取り組みが進められていくというのが最も理想だと思います」 新年度、高津区で「カーボン・チャレンジ川崎エコ戦略」の一環として学校などにゴーヤを植えることになった。「町内会の人びととか、区民の方にゴーヤの種を育てていただきたいですね」
「とにかく、区民の方々と着実にやっていきたい」

 市内の中でも高津区がいちばん、「安心で安全なまちづくり」が進められている。
「安心安全まちづくりは行政だけではどうしても限界がありますので、やっぱり地域の方々が一番だと思います。そこに行政がどれだけお手伝いできればと思いますので行政が出てやることではないと思います」

 最も厄介なのが放置自転車。
「私の印象ではもっとあるかなあと思っていました。南口などは少ないなあという感じを受けました。ただ残念なのは、きれいになったポレポレ通りにまだ残っているかなあと。せっかくきれいになったのにどうかなあという印象はあります」 「すべて警察や行政、市民、各種団体などが足並みをそろえないと。
一緒になってやれば同じ取り組みも継続していかれると思います」  どこかが突出したらなかなか続くのは大変。労力も大変だと、指摘する。「うまく回転していけばそんなに力を入れなくても転がるのかなあと、それを止めてしまうとまた動かすのに大きな力がいると思います」
(聞き手山田裕男)    趣味は将棋。「物心がついたころからずーっと」

多摩川新聞社